So-net無料ブログ作成
都市・芸術 ブログトップ

最近読んだ本7 [都市・芸術]

ブロードウェイ大通りNik Cohn 1995 The Heart of the World  
訳 古草 秀子 渡会 和子 河出書房新社

著者は、40年前1977年、丁度私が大学を卒業し働き始めた頃、世の中にディスコがはやっていた時のアメリカ映画「サタデーナイト・フィーバー」の原作者である。イギリス人の父とロシア人の母の間に生まれ、アイルランド・ダブリンで育ち1975年アメリカに移住した。此の本は、ニューヨーク・マガジンに書いた記事が大当たりして、映画やミュージカルになった収入で、丁度ジョイスの小説ユリシーズで主人公がダブリンの町をさまようように、ブロードウエイをその発展の歴史をたどって南から北に、いろいろな人間が脚光を浴び、没落した身の上話を街の転変に重ねて描いたノンフィクションだ。その人間たちも、性倒錯者、証券マン、市議会議員、ボクサー、賭博狂い、元麻薬中毒、ショウガールなど、全て盛り場の移動と共に落ちぶれたものばかりだが、この本を読んでどこか爽やかさを感じるのは、作者の強烈なニヒリズムと、人間の弱さへのやさしい眼差しなのだ。

1.なぜこの本を読もうと思ったか。
理屈っぽい本が好きなので、たまに軽い内容の物を読もうと思い図書館で見付けたのがこの本だ、昨年6月旅行でニューヨークに寄り、5番街32丁目の安宿に泊まった。西に歩けばすぐにマディソンスクエアガーデンで地下がボストンへの列車が出るペンステーションだ、昔はサーカスの行われる公園だったのでこの名がある、今は大きなアリーナでロックイベントをやっていた。ブロードウウェイは南端のバッテリーパークから17丁目まで北上し、そこから碁盤目の街を唯一斜めにセントラルパークの南西角へ延びる。23丁目の鋭角の角が初期スカイスクレーパーの傑作、ダニエル・バーナム設計のフラットアイアンだ。この辺りに住む友人の芸術家岡本陸郎氏夫妻と、夕食はレストランでパエリアを、翌朝はすぐ前の公園でスズメにパンを上げながら朝食を共にして分かれボストンに向った、このような経緯で本のタイトルに目を引かれたのだ。ちなみに氏は作品を持帰り九州九重に個人美術館を開いている、興味のある方は下記ホームページを見てください。
http://www.rikurookamotomuseum.com/info.htm

2.何故この本について文を書こうと思ったか。
それは次の話がスキャンダルとして出てきたからだ。「マディソン・スクエアは「地上の楽しみの園」となった。そして、ブロードウェイは、その「金ぴか時代」に突入した。「金ぴか時代」は、はっきりしないが188O年代のどこかで始まり、終わりはもっと明確で、1906年6月25日の夜、ハリー・ソウがスタンフォード・ホワイトを撃ったときとされている。」
ホワイトはアメリカの1世を風靡した建築家で、私も設計事務所勤務の時代に、過去の様式を用いた建築を、H.H.リチャードソンやホワイトの作品で学んだので、この文にショックを受けた。ホワイトの死因は知らなかったが、撃ったのが億万長者で、アイドル女優をめぐるトラブルが原因というので、ブロードウェイでは最も知られた話らしい。                               ホワイトは米国の建築史でどのような位置を占めるかを述べよう。国家的仕事を行った建築家はリチャードソン(Henry Hobson Richardson)1838~1886に始まる、ハーバード・パリのボザールを出て多くのロマネスク様式を用いた作品が残る、主作品にボストンのトリニティ教会がある。ホワイト(Stanford White)1853~1906は6年間リチャードソンの基で働き、ヨーロッパ遊学後Mckim.Mead &Whiteとして3人で建築事務所を創設し、ワシントンスクエア凱旋門、2代目のマディソンスクエアーガーデン、学校や住宅など多くの作品を残した。これ以後シカゴ万博計画に集結したチャールス・マッキム、ルイス・サリバン、ダニエル・バーナムなどの中でバーナム(Daniel Burnham)1846~1912はBurnham&Root事務所としてニューヨークのフラットアイアンやシカゴのルッカリーなど多くの高層ビルを設計しシカゴ派と呼ばれる。日本に旧帝国ホテルなどの作品を残したライト(Frank Lloyd Wrighit)1867~1959もサリバン、バーナムの基で働いた。

3.スタンフォード・ホワイト、イヴリン・ネスビット、ハリー・ソウの三角関係、この部分の抜粋だ。
「この時代は、アメリカが莫大な富と絶大な自信を持った時代であり、優美、けばけばしさ、そして単なる愚かさが混ざり合っていた時代だった。ホワイトはそのすべてを一身に備えていた。芸術家にして世馴れた都会人、紳士にして遊び人。建築家としては、古典主義と大げさな装飾をボザール風に自由に折衷し、公共建築の様式の輪郭を定め、大きな影響を与えた。ホワイトは火山なみに精力的だった。公的には、二代目のマディソン・スクエア・ガーデンによって、ホワイトの名声は頂点に達した。私的に彼が勝ち取った最大のものは、イヴリン・ネスビットだった。そして最後に、この公と私の関係は、もつれあって因縁話へと発展する。まず、ガーデンの話がもちあがった。バーナムが引退したあと新たな大施設を建てようということになり、マッキム・ミード・アンド・ホワイト建築事務所に声がかかった。そして4OO万ドル余りをかけて、まるまる一ブロックを占める「遊びの殿堂」ができあがった。アンフィシアターと呼ばれる大円形競技場は一万七干席、屋上にはひときわ高く、セビリャのヒラルダの塔を模した塔が聳えていた。
イヴリン・ネスビットは、1901年に登場した。ブロードウェイに来たばかりの16歳で、大当たりのショー「フロロドーラ」のコーラスガールをしていた。このうえなく魅力的な女性で、卵形の顔に、腰まで伸びた赤褐色の髪、ラファ工ロ前派の絵のような華奢な体つきは、時代にぴったりの美しさだった。やがて、スタンフォード・ホワイトの目にとまり、ホワイトは大衆の好奇の目が及ばない西24丁目のロフト・スタジオで、彼女にシャンペンをふるまった。スタジオの一隅に、緑の蔦をロープにからませた、赤いびろうど張りのぶらんこがあった。ホワイトはぶらんこに彼女をのせて、揺らしそのあと、鏡だらけの部屋で言葉巧みに誘惑した。スタンフォード・ホワイトの新しい愛人として奉られ、イヴリンは裸で赤いびろうどのぶらんこにのって、天まで届けとばかりに足を蹴りあげていた。
やがて成り行きで、彼女はハリー・K・ソウと結婚することになった。ソウは欠陥人間だったが、4千万ドルの遺産の相続者だった。 結婚はうまくいかなかった。スタンフォード,ホワイトへの恨みはくすぶり続けた。「俺の妻をひっかけて、ものにした、あのげすなでぶ野郎」そしてとうとう、ソウはマディソン・スクエア・ガーデンの屋上庭園に行き、ホワイトの眉間に三発、撃ちこんだ。」

4.この本で考えたこと。
古今、建築家はあまり派手な事がなく、事件に巻き込まれたのを聞かない。
フランク・ロイド・ライトが駆け落ちした夫人との住居兼アトリエとして建てたタリアセン・ウェストを、狂った使用人により放火で焼かれ、婦人と子供2人、弟子4人が惨殺された事件が有るが、本人がスキャンダルで殺されたのはスタンフォード・ホワイトくらいだ。私が師事した村野藤吾先生や、そのまた先生の渡辺節氏など、ずいぶん粋な遊びもしたようだが、あくまでその時代のオーナー・クライアントとの付き合いだ。ホワイトも村野先生も建築様式を使いこなすという点では同じで、私も勤務時代にホワイトの作品集を勉強した。だが彼はその能力を芸術に昇華させるだけでなく、欲望の為にも使った。
この事件が自分の1/3の年齢の女性を愛人とした結果だ。資料によれば、ソウの家系には精神異常者が多く、金の力で異常者として刑を逃れ、後に正常者と主張し施設を出ている。ネスビットは不道徳な女性だったという説がある、ソウの家から金を貰い、子育てをして普通に暮らしたという。
コメント(0) 
都市・芸術 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。